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映画「ナラタージュ」を観てきたので感想

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こんにちは、みやまです。

先日、映画「ナラタージュ」を観てきました。

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5月に原作の文庫を買って読んでいて、映画もずっと楽しみにしていました。

高校の先生と元生徒の恋、と片付けるにはあまりにも切なくて苦しくて胸を締め付けられるような物語。登場人物たちの弱さや脆さがすごく人間臭くて、だからこそそれぞれの人間関係が濃く感じるんですよね。

想い合っているけれど、相手のことを想うがあまりに離れていく二人が本当に不器用で切なくて、終盤は一気に読んでしまいました。

【本】2017年5月の読書記録 – みやまクロニクル

 

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あらすじ

大学2年生の春。泉のもとに高校の演劇部の顧問教師・葉山から、後輩の為に卒業公演に参加してくれないかと、誘いの電話がくる。葉山は、高校時代、学校に馴染めずにいた泉を救ってくれた教師だった。

卒業式の日の誰にも言えない葉山との思い出を胸にしまっていた泉だったが、再会により気持ちが募っていく。二人の想いが重なりかけたとき、泉は葉山から離婚の成立していない妻の存在を告げられる。

葉山の告白を聞き、彼を忘れようとする泉だったが、ある事件が起こる―。

映画「ナラタージュ」公式サイト|Story

 

しんどい・重い・苦しい・つらい

そういう物語だとわかっていても、実写として目の前に展開されると登場人物たちの抱える想いの交錯に胸が苦しくなってしまいました。観終わった後に残るしんどさがハンパないんです。でもイヤなしんどさじゃなくて、「良い映画を観た」というしんどさなんですよね。

 

葉山先生を「ダメ男」とは切り捨てられない

複雑な事情がありながら離れて暮らしているとはいえ、妻とは離婚していないわけだから、葉山先生が泉の気持ちに気づいていながら「別れた」とか「ずっと君に言おうと思ってた」 とか言ってるのは本当にダメだなと思うんです。それでも泉が自分を愛してくれるのをわかっているから。

そういうダメなところを見せながらも不快さを残さないのは、あくまで泉の視点で話が進むからなんですよね。泉の記憶の中の葉山先生として描かれているわけだから、つらかったり苦しいことも含めて美しい思い出としての葉山先生がそこにいる。

だから私は、葉山先生を単に「ダメな男」と評することができません。葉山先生には「ダメな男」というより「弱い男」という言葉が当てはまるのかもしれません。

 

人に恋すること、人を愛すること

高校生の頃の泉が葉山先生に抱く想いは「恋」だけど、卒業して大学生になって再会する約1年の間にだんだん「愛」へと変わっていくんですね。「あの人には私しかいない」っていうのはすごく危険な感情だと思うんだけど、それでも振り切って葉山先生のもとへ向かう泉も決して強い人間ではないというのがこの映画のミソかなと思います。

泉の葉山先生への愛の前に最後には為す術がなかった小野くんが不憫でなりませんが、彼は彼で嫉妬から束縛したり愛を乱暴な方法で確かめたりする弱い男なのです。

これは完全にネタバレだけど、泉は小野くんに抱かれてる時はつらそうな表情を浮かべて気持ちは完全に小野くんの体の向こうに葉山先生を想っていて。葉山先生に抱かれる時は喜びさえ感じるような恍惚の表情なんですよね、涙まで流すし。ここの対比がすごく印象的でした。

 

誰かに身も心も捧げるような「愛」に出会えるのだろうか

映画を観ながら頭の隅にずっとあったのが、泉と葉山先生のように互いの存在に救われるような、身も心も相手に捧げるような愛に私はこの先出会えるのだろうかということです。当然映画はフィクションで、実際の生活がこんなドラマチックなわけないんですけど。

自分のすべてを相手に尽くしたいと思えるようになったら、結婚したくなるのだろうし恋愛にももっと前向きになれるのかもしれませんね…。

私はいつまでも大人になれないままです。

 

▼原作小説はこちら▼

 

▼有村架純 出演作はこちら▼

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